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スパゲッティ・ナポリタンは存在するか? -2001.02.16-


 別にどうでも良い話なんですが、皆さんはどう思われますか? この問題って、イタリア料理を語る時には、はずせないトピックではないでしょうか? 蘊蓄が好きな人は、あるいは超人的にヒマな人は読んでみてください。リストランテで彼女にこんな話をしたら、退屈がって帰ってしまうこと間違いなしです!

 あと、最初に言っておきますが、ここに書いた史実は、『トマトが野菜になった日(草思社)』という本を参考にしています。だから史実部分に関しては事実ですが(もしこの本が正しければだが)、意見的なところは私の勝手な推測ですので、真に受けて他人に吹聴したりしないように!狼少年呼ばわりされること受け合いですっ!

 さて、いきなり私の結論から言ってしまいますと、スパゲッティ・ナポリタンは存在します。そして多くの方々がそれを食しています。しかし、それは悲しいことに同時に失われつつあるものでもあります。

 ところで、スパゲッティ・ナポリタンというと、やはり私なんかは、ソーセージにピーマン、玉葱、マッシュルームなんかが入ったトマトケチャップ味のスパゲッティを想像してしまうのですが、皆さんはどうでしょうか?まぁ、具にバリエーションはあるにしても、スパゲッティ・ナポリタンを語る時、まずは味のベースとなるトマトケチャップおよびトマトソースについて良く知らなければならない、といえるでしょう。同じ具を使っても、ベースの味がホワイトソースであったら、スパゲッティ・ナポリタンとはまったく違うものになってしまいますからね。

 では、まずケチャップおよびトマトソースの原材料、トマトのルーツを探ってみましょう。実は、トマトはイタリア料理において、新参者であるといわれています。イタリア料理といえば、トマトと連想してしまう私にとって、これは非常に驚きの事実でした。だって、じゃぁ、トマトを使う以前はどんな料理だったの?って思えるほど、トマトの威力ってすごいじゃないですか。だから、まずはこのトマトって何?というところからお話したいと思います。

 トマトの原産地は皆さんご存じの通り、エクアドルおよびペルーなど、太平洋側のアンデス高原。ここには、インカ帝国が栄えていましたが、インカ帝国の人々は、自生するトマトをたまに食すことはあっても栽培をしてはいなかったようです。トウガラシやトウモロコシ、ジャガイモは栽培された跡が発見されていますが、トマトの栽培跡は見つかっていないからです。同じ頃、メキシコにはマヤ文明およびアステカ文明が栄えていました。こちらでは、トマトを栽培した跡が発見されています。しかし、そんなには好んで食べられていなかったようです。また、アンデス原産のトマトがどうやってメキシコに渡り、なぜメキシコだけで栽培されたのかは解明されていません。

 このトマトがヨーロッパに渡ったのは、16世紀、大航海時代のことです。この時代、コロンブスをはじめとするスペイン人は、ラテン・アメリカを征服しました。この時、インカ・マヤ・アステカの人々が好んで食べていたトウガラシやトウモロコシ、ジャガイモなどがヨーロッパに紹介されたのです。

 ところで、インカ・マヤ・アステカの人々は、トマトよりも、トマトに良く似た食用ホウズキを主に栽培し、食べていました。刻んでソースにしてトルティーヤと一緒に食べたりしていたようです。逆にトマトは、そんなに重宝されていなかった。そのためスペイン人もトマトを重宝しなかったのか、トマトをスペインに持ち帰ったという正確な記録は残っていないようです。

 ただし、1519年にメキシコに到着したエルナン・コルテスは、現地人がトマトでソースを作っていたと報告書に記述しています。これが世界初のトマトに関する記述書ですが、コルテスらは食用ホウズキもトマトも、どちらも同じようにトマトと呼んでいました。形が似ているため、コルテスらは混同したのではないかと考えられています。そして前述の通り、現地人が最も良く食していたのは、食用ホウズキです。だから、コルテスらがトマトと呼んだのは食用ホウズキのことであり、我々が言うところのトマトではない、という考えが今日では強いようです。

 というわけで、我々が言うところのトマトが文献上はじめて登場するのが、1544年にイタリアで発行された『博物誌』という本。そこには、『マンドラゴラの異種。熟すと黄金色になる。油でフリットして食べる』と記されているそうです。つまり、トマトは、1519年〜1544年の間に、スペインのコンキスタドールたちがヨーロッパに持ち込んだということになります。ちなみに当時はスパイス大戦争の時代でもあり、胡椒やナツメグなどをめぐってヨーロッパ各国が争っていました。ナツメグなんかは、手のひら一杯ぐらいで、家が建つくらい高価なものとされていて、ナツメグを採る作業員達はポケットのない服を着せられていたそうです。こんな時代ですから、めずらしい食物はなんでもかんでも持ち込まれたのではないでしょうか。もちろん、胡椒やナツメグなどの金になる香辛料以外は見向きもされなかったとも言えますが、きっとコーイチさんのような物好きがスペイン艦隊の中にいて、現地人にも優遇されていなかったトマトを可哀想にと思って、持ち帰ったのでしょう。

 そういう意味では、コルテスよりも先にラテン・アメリカに辿り着いたコロンブスの一行の誰かがトマトをヨーロッパに持ち込んだともいえます。事実、コロンブスが第二次航海、もしくは第四次航海の時に、トマトをスペインに持ち帰ったという説もあるようです。しかし、第二次航海で行き着いた先は、ジャマイカ島・プエルトリコ島であり、ここでトマト栽培は行なわれていませんでした。可能性があるとすれば、コスタリカ・パナマに着いた最後の航海となる第四次航海。コスタリカ・パナマは、アンデス高原からメキシコにトマトが伝わるルート上にあるからです。ですが、この地でもトマト栽培は行なわれていません。ましてそこは熱帯雨林の地であり、高原生まれのトマトが野生で育つのにも適してはいなかったはずです。だから、コロンブスはトマトに出会うことはなかったのではないでしょうか。

 話を元に戻しましょう。1544年に、はじめて登場したトマトですが、ヨーロッパの人々は、それを毒草であるマンドラゴラの一種と取り間違え、食用としては広く流布しませんでした。フランスやドイツでは、体に良くないものとされていたそうです。

 ちなみに先に述べた博物誌では、『熟すと黄金色になる』と書かれているので、イタリアには黄色いタイプのトマトが、まず持ち込まれたのでしょう。アンデス高原にも、大きいもの、小さいもの、黄色いもの、あまり赤く熟さないものなど、いろいろなトマトの種類があるため、どこにどの種類のトマトがいつ持ち込まれたかを特定するのはもはや不可能だといえます。今日出回っている、イタリア産のトマトも日本のトマトも、交配に交配を重ねて作られた現代人向けのトマトなのです。唯一、プチ・トマトは、アンデス原産に近いそうなのですが、もしそうだとしたら、プチ・トマトなんていう甘くて美味しいものをなんで食わんかったのか、ホントに不思議です。。。

 毒草と間違えたヨーロッパ人たちは、トマトを観賞用として栽培することはあっても、食すことはほとんどなかったようです。ただ、当時は食料事情が逼迫していたため、一般庶民の中には、トマトを煮込みに煮込んで毒を消したつもりになって、食べる人もいたようです。

 そんなこんなで、文献上、はじめて正式にトマト料理のレシピが登場するのは、博物誌で紹介されてから100年以上も後の1692年。ナポリの天才料理人、アントニオ・ラティーニが作った『トマトのキャセロール』。またしてもイタリアということで、イタリアがトマト料理先進国として広く認知されている理由がここにあるようです。しかし、トマトを持ち込んだのはスペインのコンキスタドールたちであることに間違いはありません。では、なぜスペインではなくイタリアなのか。そんなことは知る由もないが、スペインは他国に先んじてトマトが一般家庭に普及した国だと私は思います。

 1608年、スペインのアンダルシアの病院の食品購入リストの中にトマトの記載があったのです。そんなものまで発見するとは、まったくこの本の著者には頭が下がります。それからトマトが食用として拡がりはじめた1700年代、他国がトマトを炒めてソースにして食していたのに対して、スペインではソースだけでなく、ガスパッチョやサラダとして生食していました。食物を生で食べるには、煮焼きして食べるよりもその食物に対する知識が必要となります。スペインでは生き抜くための知識と経験によって、トマトが素晴らしい健康食品であることを知っていたのではないでしょうか。スペインでの文献はイタリアに比べて少ないそうなのですが、それは当時、文献を残せる王侯貴族というよりかは、一般庶民から拡がっていったからだとは言えないでしょうか。

 トマトがヨーロッパに持ち込まれたと考えられる1519年〜1544年といえば、スペインが領土を拡げていった時代です。当時のスペイン国王、カール5世とその次の国王フェリペ2世は、神聖ローマ帝国の皇帝も兼ねていました。スペインも北イタリアも、事実上はスペインの領土だったのです。また、当代一の大商人、メディチ家なども北イタリアをベースにしていました。良くも悪くも、権力と経済力が世の中を動かしています。だから、お金がたくさん集まっていたイタリアで文献が残されているのかもしれません。

 それと、スペイン無敵艦隊は、1571年にオスマン帝国を破り、地中海を手に入れます。つまり、スペイン人の遠征・侵略の動きは、南イタリア/シチリア島→ギリシアなどの地中海へと拡がります。そしてトマト栽培は、北ヨーロッパの寒い気候では適さないが、地中海気候は最適です。もしかすると、トマトを良く知るスペイン人(特に前線に立つような名もなき人々)による遠征の動きと気候の偶然のマッチングによって、トマトはイタリア、特にナポリ以南やシチリア島、ギリシアなどに拡がっていったのではないでしょうか。

 もちろん、この間も各国の宮廷庭園や植物園の科学者たちは、トマトを育て、研究し、文献を残しています。それをまとめると、スペインでは『体に良い。病気に効く』とされ、イタリアやイギリスでは『食せるが、栄養学的には取るに足りない』、フランスやドイツでは『毒がある』とされていました。こうしたことから見ても、やはり現地でトマトを知った国とそれ以外の国では認識に大きな違いがあることがわかります。そうなると、ラテン・アメリカでも、そのようにして食べられていたのでしょうか。それはまったくの謎に包まれていますが。。。

 話が逸れ過ぎました。アントニオ・ラティーニが王侯貴族向けのトマト料理を開発して以来、トマト料理はヨーロッパ各国へと拡がりはじめます。では、いつスパゲッティとトマトは出会ったのでしょうか。(やっと本題に入れた)

 出会ったのは、ナポリ。ここは、トマトの一大産地あると同時に、デュラム小麦の名産地でもありました。当時のナポリの人々は、にんにくとオリーブオイルとチーズのパスタを頻繁に食していたようです。屋台のスパゲティ売りなども存在したようで、まるで日本の夜泣き蕎麦と同じですね。

 紀元前、古代エトルリア時代にはじまったパスタづくりは、ギリシア・ローマ時代を経て、マカロニ、スパゲッティ、ラザニアなどさまざまな形を生み出すにいたりました。14世紀半ばには、専門のパスタ生産業者も誕生していたようです。そして、18世紀半ばには、パスタ料理はナポリを中心とする南イタリア庶民の代表的な食事となっていました。

 このパスタをトマトソースで和えたレシピが文献として登場するのが、1839年。今から、たったの160年ほど前のことです。著者はナポリ公爵であったイッポリート・カヴァルカンティ。『調理の理論と実践』という本で、“トマトソースのヴァルミチェッリ”を紹介しています。(ヴァルミチェッリは、スパゲッティよりも細いパスタ)

 もちろん、この年以前に、パスタとトマトのマリアージュは完成していたことでしょう。しかし、18世紀のイタリア料理に革命を起こしたといわれるナポリ出身の天才料理人(またしても)コラードが書き記した著書『粋な料理人』(1773年に出版。以後、1820年まで再版を重ねる)には、さまざまなトマト料理が掲載されているが、トマトソースのパスタは載っていません。実際、いくらトマトが美味しいからといっても、これまで馴染んできた味や習慣を変えるのは難しいでしょう。美味しさにくわえて、華美さも要求される王侯貴族の料理に、見栄えの良い赤いトマトが採り入れられたのは、容易に納得できますが、庶民的な料理はどうでしょうか?たとえば、蕎麦やうどんにトマトを和わせるのは、かなり大胆なことだと思います。イタリアでも同じように、肉料理のソースや煮込用調味料として利用されていたトマトを、パスタにも和わせることは少なかったのではないかと思います。

 いずれにせよ、1820年〜1839年までの間に、トマトソースのパスタは、日の目を見ることになりました。そして、その味は当時の作曲家、ロッシーニを感嘆させたそうです。以後、この“パスタ・アル・ポモドーロ”は、ナポリの名物料理となって、イタリアを北上していったのです。もちろん、同時に、トマトはイタリア料理の赤い革命と呼ばれるほど、さまざまな料理に利用されるようになっていきました。(ポモドーロは、イタリア語で黄金のリンゴ=トマト)

 つまり、スパゲッティか、ヴァルミチェッリか、タリアテッレか、フェトチーネか、ロングかショートか、ラザニアか、またはミートソースが入るとか、○○の具が入るとか、いろいろな違いはあるけれど、創意工夫や独創性をシンプルな形で具現化した“パスタ・アル・ポモドーロ”はすべて、ナポリが産んだ“パスタ・アッラ・ナポレターナ”だと言えるのです。

 これがスパゲッティ・ナポリタンは存在するという第一の理由です。(長かった。。。)

 さて、アメリカでケチャップが開発され、そしてそれが日本でも紹介されるようになった明治以降、日本独自の洋食文化がはじまりました。その過程でスパゲッティ・ナポリタンも誕生し、家庭に広く浸透していきます。

 同じ時期、トマトソースは、旨味成分であるグルタミン酸をもつ洗練された調味料をもっていなかったイタリアやその他の国で爆発的に拡がります。トマトには、他の野菜にはないくらい多くのグルタミン酸を含んでいたのです。イタリアなどでは、トマトソースを醤油や味噌のように、調味料として使うようになっていったのです。もちろん、ケチャップも同じで、それはアメリカの醤油であると言われるにいたっています。

 そして、イタリアでは、その家その家のマンマ(お母さん)がその家独自のオリジナルレシピでトマトソースを作るようになりました。アメリカでもその昔、ケチャップは家庭それぞれの味があったそうです。トマトソースは、ケチャップは、彼らにとっての“おふくろの味”なのです。

 ところで、我々は子供の頃、スパゲッティ・ナポリタンを喜んで家庭で食べてはいなかったでしょうか。先にも述べましたが、私の家のスパゲッティ・ナポリタンは、ソーセージにピーマン、玉葱、マッシュルームなんかが入ったトマトケチャップ味のスパゲッティでした。そんなパスタは、イタリアにはないと言われていましたが、大学時代、イタリア移民の友人宅を訪れた時、彼のマンマは、私のマンマが作ったのと同じようなスパゲッティを作ってくれました。その時、やはり家庭の味と言うのはこういう質実剛健なものかと思ったのを覚えています。

 そう、スパゲッティ・ナポリタンは、日本人にとってマンマの味になっていなかったでしょうか。

 もちろん、トマトソースの代わりにケチャップを使ったり、イタリアほど手は込んでいないでしょう。また、私が食べてきたようなスパゲッティ・ナポリタンは、実際にはイタリア料理としてはないのかもしれません。しかし、スパゲッティ・ナポリタンは、戦後、貧しいながらも、少しでも美味しくおしゃれなものを家族に提供したいと努力をしてきた母親の味として、確かに存在するものなのです。

 これがスパゲッティ・ナポリタンは存在するという第二の理由です。(短かった。。。)

 そして私は、それは存在していたね、というような過去形にならないことを願ってやまないのです。―――END

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