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納豆の美味納豆について語る時、もっとも喧々囂々、侃々諤々となるのが、「納豆は何回かきまぜるべきなのか」ということだろう。「まったくかき混ぜない」という人から、「400回はかき混ぜないとダメだ」という人までいるようで、非常に意見の分かれるところだ。今日はここのところについて、詳しく述べてみたい。 納豆のかき混ぜ方について、歴史上で、たぶんおそらく一番最初に指摘したのは、北大路魯山人ではないかと思う。そして一番有名で、引き合いに出されるのも氏の話しである。氏は、『魯山人の料理王国(文化出版局)』で、次のように述べている。 『練り方がまずいと、納豆の味がでない。納豆を器に出して、それに何も加えないでそのまま二本の箸でよく練りまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆はうまくなるのであるから不精をしないで、また手間を惜しまず、極力練りかえすべきである。 かたく練り上げたら醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練る。要するにほんの少しずつの醤油をかけては練ることを繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に、辛子を入れて撹拌する。中略。納豆はこうして食べるべきものである。 最初から醤油を入れて練るようなやり方は下手なやり方である。』 グルメ情報が溢れかえっている現代ならいざしらず、昭和初期にすでにこのような指摘をしていたことは驚愕である。 少し話しが前後してしまうが、魯山人が『とにかく糸が切れるまでかき混ぜる』とか『400回以上かき混ぜる』と言っていたという話しをよく聞くが(私もテレビで聞いたことがある)、これは間違った話しが伝わったせいだ、と思う。テレビ側が、話しをおもしろおかしく誇大したのではないか。あるいは伝言伝言の繰り返しで、どこかで間違ってしまったのだろう。 しかし『魯山人の料理王国』を読む限り、魯山人は「糸は出せば出すほどよい」としているので、糸が切れるまでかき混ぜるとは言ってないことは明白だ。また回数に関して、ここでは何も言っていない。他の記事で述べていた可能性はもちろん否定できないが、私が自分で試したところ、400回以上かき混ぜると逆に糸が切れてくるので、糸を出せ!と言っている氏の意見とは相反するところにある。よって、400回という話しも眉唾ものだと思う。 問題は「糸のすがたがなくなってどろどろに」という部分をどう解釈するかだろう。その状態が写真に撮ってあれば、なんの問題もなかったのだろうが、「糸のすがたがなくなって」というところから、「納豆の攪拌回数をとにかく糸が切れるまで」という話しに簡略化されていった可能性もある。納豆の話の初出は、昭和9年ということなので、長い間に引用された文が孫引きされていって、過った形になり、都市伝説と化してしまったのではないかと私は推測している。 特に魯山人に与するわけではないが、私も氏の意見に大賛成である。糸は出せば出すほどよい。では何回が良いかというと、これは納豆の状態にもよるので何回とは言い切れない。糸が出やすい納豆と、出にくい納豆があるからだ。仮に状態の良い納豆を使ったとして、ネバネバが器全体に真っ白に糸を引いて、こりゃ、エイリアンの巣か蚕の繭かっ?!と勘違いするようになるまではかきまぜるべきである、と私は思っている。発酵の足りない納豆の中には、糸が出ないものもあるので、器全体が白くならなければ、その納豆には価値がないということになる。ただ、10回や20回では、ここまで糸を引かないので、100回前後はかきまぜることになるだろう。何回かき混ぜるということよりも、そういう状態になったことを目で確認すればよい。最適な回数は納豆によって異なるのである。 ポイントとしては、やはり最初に醤油を入れないことだ。糸が引きにくくなるからである。カラシは糸を引きにくくする成分は入ってないので、最初に入れても良いという意見もあるが、かきまぜているうちにカラシ成分が揮発していくだろうから、最初から入れることには反対である。また砂糖を入れると糸が引きやすくなるという話しがある。これは本当であるが、味が甘くなるので反対だ。味を調整すれば砂糖は気にならないというが、そんなことはない。どうしても甘さが気になる。まぁ、もしかすると、私が試した時、砂糖を入れ過ぎたのかもしれないが。 さて、少し話しを戻して、魯山人の言う「糸のすがたがなくなってどろどろに」とはどのような状態であるかを考えたい。そこに最高の味がどのようなものかという真意が隠されている気がするからである。 ある時、週刊ゴラクで連載されている『江戸前の旬』という鮨屋のマンガで、魯山人の納豆の作り方について触れているのを読んだことがある。今、手元にないので、正確には再現できないが、このマンガでは、鮨屋によくある厚みのある湯のみ茶碗に納豆を入れて、割り箸でグルグルかきまぜて10分か20分(忘れた)、納豆の形がなくなるまでかき混ぜたのが本当の味だと言っていた。たぶん原作者は、『魯山人の料理王国』を読んでいて、「糸のすがたがなくなってどろどろに」という部分を、大豆の形がなくなるまでかき混ぜる、と解釈したのではないか、と勝手に思っている(原作者に確認したワケではない)。 私も10分以上、納豆をかきまぜてみたことがあるが、納豆をかき混ぜるだけでつぶすのは容易ではない。マンガの主人公も汗だくになっていたが(たしか)、スプーンでつぶそうとしてもヌルヌルすべってつぶれないのに(試しにやってみた)、箸でかきまぜてつぶれるのか?と思う。実際、私はつぶすことはできなかった。たぶん、これに成功する人は少ないのではないか。魯山人の口調からすると、誰でも時間をかければできることを億劫がるなと言っていると取れるので(私的には)、誰もができない大豆の形がなくなるまでかき混ぜる、と解釈するのは少々無理があるように思える。それに納豆の形が崩れてしまったら、歯ごたえがなくなるので、納豆としてあまり美味しくなくなるように思える。 私の解釈はこうだ。まず、糸を引くまで十分にかきまぜる。その糸に醤油をじっくり染み込ませるようにたらしていく。醤油を一気にたらすと、せっかく引いた糸が切れてなくなってしまうのでやめた方がいい。醤油を少量たらしてはかきまぜ、たらしてはかきまぜという行為を繰り返していくと、醤油を入れる前は、白い糸状でネバネバだったのが、黒っぽい液体状のドロドロしたものに変わっていく。実はこのどろどろ状の部分が納豆の旨さの醍醐味であるため、納豆のひと粒ひと粒にどろどろ状のものが全体的に覆いかぶさる状態にしなければならない。かきまぜる回数が少なくて糸が少ないと、大豆を覆うほどのどろどろが作りだせないので、不精をするなと。こう魯山人は言いたかったのではないかと思う。 このように解釈するのは、私が納豆で一番旨い部分はドロドロの部分であるという偏見を持っているためだ。あくまで主観とはいえ、ここが私の意見の根幹にもなっている。魯山人もどろどろの部分が一番旨いんだ、と思っていたのではないかなぁと。。。 ところで、私は、このどろどろ状をひとつ進化させて(退化させて?)、ムース状にした方がさらに旨くなると思っている。醤油を入れる前に十分かきまぜるところまでは同じだが、その後の調味料を入れる段階では単にかきまぜるのではなくて、空気を入れるようにしてかきまぜるのだ。メレンゲでスフレを作る要領だと思ってくれればいい。だから、これはかき混ぜる回数が多ければ多いほど良いということではなく(実際は多めになるが)、かき混ぜ方の善し悪しが問題になる。ただ単に箸をグルグルしているだけではだめで、泡立つように糸状のところに狙いを定めて箸を入れていく。混ぜ合わせるポイントをしっかり目で確認しながらかき混ぜることが重要になる。 ただし、醤油だけではムース状にはならない(なりにくい)。もう少し液体の要素がないと泡が立ってこないのであるが、醤油をたくさん入れても塩っぱくなるだけなので、ダシ汁を少量加える。入れ過ぎるとせっかくの糸がなくなるので要注意。醤油だけでは黒っぽくてドロドロしているが、こうして泡立てると空気が混入されるため、ふたたび白っぽくなる。納豆は、このような空気が入って泡立っているムース状で食べるのが一番旨い。しかし、かきまぜている手を止めるとすぐに泡がはかなく消えていってしまうので、残念ながらご飯に乗せて食べている時間はない。よって、納豆は納豆だけで食べることになる。ムース状になったら、すぐにパクッと食べるのだ。ご飯派からは真っ向否定されそうだが、実際問題、そうした方が納豆を美味しく食べられるのだから、最上を求めるならばそうすべきではないか、と思うのである。ソバとかうどんだって、最初はツユにつけないでたべるでしょ。考え方はソレと同じであると思うのだ。 しかし、ご飯を食わなければ、腹が一杯にならんだろう、という指摘もあるだろう。腹を満たすことも食の目的のひとつなので、それはそうだ。そういう意味でいうと、まずは納豆だけで味わい、3分の1が残ったくらいになったら、またできるだけ泡を立て、十分に泡立ったら納豆が入っている器の方にご飯を入れる。そして、泡やネバネバとご飯を混ぜる。器についてるすべてのネバネバを有効活用するのである。こうして、米粒ひとつひとつにネバネバがまとわりつくようにして、納豆ご飯を作ってからそれをいただくのだ。この時もネバネバが米粒ひとつひとつにしっかりまとわりついているか、ちゃんと目で確認しながら混ぜることが重要である。これはもしかするとチャーハンの作り方と同じかもしれない。しっかり玉子でコーティングされたパラパラの米粒を作らないとチャーハンの旨さは完成しないのと同様、納豆ご飯もネバネバコーティングした方が完成度が高いと思うのだ。あくまで個人的見解だが。 ちなみに、私の家庭事情をバラすようで恥ずかしいのだが、週末の朝とか、奥さんと一緒に食事をする時、納豆の豆自体は奥さんに取り上げられてしまう。奥さんが食べ終わった後、私は容器にまとわりついた残りのネバネバだけをもらって、いま述べたようなネバネバご飯にして食べている。私はネバネバの方が好きなので、家庭は円満だということを強調しておきたい。話しは前後するが、ネバネバしか存在しない、こういう状態の時も、まずネバネバを空気を入れるようにしてかきまぜてから、ご飯を入れるべきである。これをするかしないかで味が変わるので、ここは重要なポイントである。 こうして考えていくと、納豆の大豆とはネバネバを活かすための媒体にすぎないのではないかと思えてくる。カツオブシで出汁を取った後、そのダシガラを食べても良いけど、多くの人がカツオブシを捨ててしまうように、納豆の大豆は納豆菌のネバネバを生成するもっとも良い媒体(*1)として存在するだけであって、フワリとしたネバネバだけの方が純粋に納豆的な旨さなのではないか、と思うのだ。 (*1:大豆に限らずどんな豆を使っても納豆を作ることができる、とDancyuに書いてあった。また豆どころか、他の食材でも納豆菌さえ培養できれば納豆っぽくなるとどっかの雑誌か体験記事に書いてあった。しかし、その中でもやはり大豆が一番良いという結論だったと思う) 納豆には、大粒、中粒、小粒、ひきわりといろいろな種類があるが、上記のような考えにもとづくと、大粒と中粒では、ネバネバの分量に対して大豆の味が勝ってしまうことになる。豆の味が強く出過ぎてしまうのだ。ではひきわりが良いかというと、そうではない。ひきわりとネバネバが一体化してしまっているので、ネバネバだけを残すことができない。それにひきわりは大豆の旨味が抜けてしまっているような気がする。味の抜けた大豆も一緒に食べなければならないから非常にマズく感じる。よって、小粒が一番良いということになる。 また話しがそれてしまったが、残念ながら納豆の食べ方の話しはまだまだ続く。先述のネバネバご飯を食べた後も、まだ容器に、かすかにネバネバが残っているからだ。ここにまた、ご飯を少量入れ、味噌汁をご飯がひたひたになるくらいまで入れる。この時、味噌汁はアツアツではいけない。アツアツの味噌汁を入れると、良いネバネバがなくなってしまうからである。できれば冷めた味噌汁を入れるのがいいだろう。そして油揚げとか、麩とか、なんでもいいけどそうした味噌汁の具を使って、器にこびりついたネバネバをこすって味噌汁の中に溶かし入れていく。この作業を丹念に繰り返すと、ネバネバのネコマンマができあがる。どこかでアツアツの納豆汁を見たことがあるが、あれはどうも感心しない。確かに温かい方が納豆の香りは立つのだと思うが、熱いとネバネバがなくなってしまう。冷たい方がネバネバの味が生きると思うのだ。温度が60度くらいの納豆汁であれば、悪くはないかもしれないが。 ネバネバのネコマンマは、どうにもセコイと思われるかもしれないが、最後に味噌汁を入れることで、器のヌメリが全部取れてきれいになる、という効用もある。納豆を食べた茶碗をスポンジで洗う人間がいるが、アレをやられると一生かかってもスポンジからヌルヌルが取れなくなる。ヌルヌルがついたスポンジで洗ってると、皿がきれいになっている気がしなく、非常に気分が悪い。そのまま平気で使っていられるなんて信じ難い。納豆を食べた茶碗を洗う時は、一回、熱湯をかけて手でヌルヌルを擦って落としてからスポンジを使うべきである。ネバネバのネコマンマを作れば、食べ終わった瞬間に、ほとんどのネバネバが取れているので、洗う手間もはぶけるのだ。これはスゴイ!というわけで、ネバネバを追い求めて味噌汁で洗い流すところまでいったら、禅僧が沢庵で最後に器を洗うというものに通じたことに気が付いたのであった。う〜ん、納豆で悟りを開いたかな?んな、ワケないか。 あ、薬味の話しを忘れていた。納豆にネギをかける人は多い。まぁ、これは好みであるが、私は基本的に好きではない。どうしても入れたい場合、あまりに苦味成分の強いネギは避けた方が良いだろう。スーパーで売っているネギはそういうまずいネギしか置いていないから、有機野菜屋などで甘味のあるネギを苦労してでも探すべきである。そしてネギの形状であるが、輪切りにするのはよろしくないと思う。ネギの繊維がしっかり切れていないと、食べた時にネギの味が強く出てしまうからだ。これでは納豆の薬味ではなく、ネギ納豆という料理になってしまう。甘味のあるネギの白い部分だけをみじん切りにするのであれば、少量なら入れてもよいと思う。 もひとつ、トッピングの話しだ。納豆に卵の黄味だとか、いろいろ混ぜる人がいる。まぁ、これは人の自由である。例えば、ビールが好きだといっても、ベルギーの濃厚な修道院ビールが好きな人がいれば、サッパリした味の発泡酒が好きだという人もいる。同様に、納豆が好きだといっても、あの臭みを少しでも抑えたいと思ってる人もいるし、その臭みが好きだという人もいるだろう。しかし、納豆のネバネバが本来の納豆の旨さである、ということを前提にすると、そのネバネバが薄まってしまう行為をすれば、「キミは納豆好きじゃないね」と言われても仕方がないのかもしれない。温めて少し固まりはじめた卵の黄味だけならばまだいいが、卵の白味まで入れてしまうのは、そういう行為のひとつに当てはまるだろう。他に、ジャコや昆布の佃煮を入れる人もいる。これは確かに旨い。旨いが、それはそれ自体でも成り立つジャコや佃煮の旨さを用いているワケだから、もはやそれは薬味/トッピングではなく、ジャコ納豆、佃煮納豆という一品料理なのではないかと思う。 では、薬味以上の存在であり、一品料理というほどでもない納豆のトッピングとして、何が考えられるのか。私は梅干しをあげたい。梅干し自体が嫌いという人も多いので、同意してくれる人は少ないと思うが、醤油の量を少し減らして、かわりに梅干しを入れると、納豆の泡(ムース状)の肌理がさらに細かくなって旨くなる。ただ、酸味も強くなるので、単品で食べるよりも、ご飯に良く合うおかずに変身する。そういう素晴らしい効用もある。いや、ちょっと待て!それこそ、梅納豆という一品料理じゃないのか、という誹謗中傷が聞こえてきそうだが、味の根幹となる納豆のネバネバや泡に良い影響を与えつつも、自分の姿は消しているというところが、一品料理未満と呼んで良いのではないかと思うのだ。 が、残念なことに市販の梅干しは化学調味料漬けになっているので、うまくない。『高級』とか『無添加』とか書いてある梅干しであっても、大衆の要望によって甘くなっていたり、アミノ酸が添加されているので、本物の梅干しと呼べるものは市販ではひとつもないと断言する。これは市場原理なのだから仕方ないのであるが、本物が売られていない以上、自分で作るしかない。塩と梅だけを使って、天日で干した酸っぱい梅干しでなければ、私の言うところの梅納豆は完成しない。肌理細やかな泡が立たないのである。自分で梅を作っている人は、ぜひ試して頂きたい逸品だ。と私は思う。 納豆を使った料理にも言及したいところだが、もうやめておこう。 |
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