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ラーメン、その不味さの探究


 毎日3食ラーメンとか、通算何千食突破とか、そこまでのラーメン通ではないが、私も結構ラーメンは好きな方である。醤油、味噌、塩、トンコツ、魚介系、半乾麺、細麺、太麺、つけ麺、冷し麺などなど、いろいろなラーメンを食べてきたし、時々、無性にラーメンが食べたくなる時もある。どちらかというと、ラーメンが気になっている方だといえるだろう。だから、ここが美味しいとか、新しい店ができたとか、雑誌やホームページ、テレビで紹介されていると、ついつい出かけて行ってしまう。時間がある時は、1時間くらい並ぶこともあったりする。並ぶのは嫌いなのだが、ラーメンの行列待ちに関しては、金持ち、貧乏、職の貴賤は関係ないのだから仕方がない。誰もが平等に並ぶ(テレビの取材以外)。それが大衆文化を代表するラーメンの良いところであることは間違いない。

 お店の紹介記事を読んだり、並んで待っていたりする時は、どんな味のラーメンが出てくるのかドキドキものである。ここで頭の中の妄想が膨らみ過ぎてしまうのが悪いのか、哀しいことに、ラーメンを食すたびにガッカリとさせられる。これはウマイ!と手放しで賞賛できるラーメンにまだ出会ったことがないのだ。今度はどうか、今度はどうか、と期待を込めていくのだが、毎回どうにも裏切られてしまう。

 まず、麺がまずいところが多すぎる。スープもどうなんだろう?と思う店ばかりだ。そして、麺とスープがバラバラであることがほとんどだ。残念ながら、一体感を感じたことがない。それなのに何故こんなに人が並んでいるのか。みんなが喜んで食べているのに、私一人だけ首をかしげているのだとすれば、これは私の舌がおかしいとしか考えられない。実際、世の中の多くの人は、鮪であれば大トロを、焼肉であればカルビを、ステーキでいえば松坂牛などの霜降り肉を尊重する傾向にあるのに対して、私は赤身、ロース、短角牛を好む者である。ラーメンに関しても脂の多さに辟易している者である。

 「そんなヤツにラーメンを語って欲しくない!」そんな声が聞こえてきそうだが、確かにそうだろう。その気持ちはよくわかる。が、非難されることを覚悟でいえば、結局のところ、ラーメンに多くの人が並んでいるのは単なるマーケティングの勝利であって、ラーメンは旨いの不味いの語るに値しないものなのじゃないか、とまで思えてくるのである。

 もちろん、学生さんや肉体労働者のために一杯500円とかの低価格に抑え、安く旨くをモットーに営業している地元密着型のお店は、それだけで存在価値がある。そういうお店のラーメンに対して、麺がどうの、スープがどうのと評論すること自体がナンセンスだし、並ぶこともおかしい。別に美味追求をすることがお店の目的じゃないからだ。それに、私が不平を言っているのは、拉麺や刀削麺など、中国の麺料理のことでもない。日本風にアレンジされたラーメンのことであり、デフォルトで一杯800円前後で、味や素材、作り方にこだわっていると謳っているお店たちに対してである。

 有名店を一通り体験して思ったことは、現在、ほとんどのお店において純粋なる美味追求が感じられないということだ。もうすでにしているよ!と多くの店主およびラーメンファンが反論するだろう。しかし、私には感じられないのだ。それにラーメンは日々進化していると言われているが、それはB級グルメ内の50歩100歩程度の進歩であって、A級の仲間入りするような進化ではないように思われる。最近ではラーメンのコース料理なんていうのもあるが、私にとってそれは別に高級化/A級化ではない。単なる創作料理の一種であり、客単価を上げるための営業手法にすぎないのではないかと思う。根本からの格上げになっていないのだ。

 こうした美味追求を妨げている要因として、価格が第一にあげられるのではないだろうか。ラーメンは庶民の食べ物として、日本全国に広く普及してきた。戦後の日本の貧しさを支えたのは、屋台のラーメンだった。豊かになった今でも庶民の食べ物という位置付けは変わらない。だから現代になって、自称美味追求型のお店においても、「美味しく」の前に、せめて800円は超えないようにといった「安く」という考えが店主の頭にあるのではないかと思う。もちろん、価格を抑えようとする店主の努力には頭が下がるし、「それがラーメン市場なんだ!」と言われれば、「そうなのですか。すみません!」と謝るしかないのだが、すべての食文化が二極化していることを考えれば、今後、ラーメンにも味を第一に考える気運が高まっても良いのではないかと思う。経済の前に、志が必要なのではないか。

 ラーメンは大衆的な食べ物だから、いくら美味しいと言ったって値段が高くてお上品な味は、もはやラーメンとは呼ばない。そういう意見もあるだろう。1杯800円でも、一部のラーメン愛好家からは高すぎるという指摘があるくらいだ。しかしそれこそ、なんでもアリであるはずのラーメンを型にはめる意見なのではないか。ラーメンを愛する人たちの頭の固さが逆にラーメン発展の妨げになっているというパラドックスが起きはじめているのではないだろうか。彼等がラーメン界の成長を支えて来たのはわかるし、その功績は褒め称えられるべきであるが、そろそろ解放してやるべきだろう。それに資本主義市場の原理からいうと、価格に上限を設定するのは好ましいとはいえない。競争による発展が妨げられるからだ。それでも未だにデフォルトのラーメンで800円を超えるお店が少ないのは、お店側にも、そしてお客側にもラーメンはできるだけ安く!という偏見があるからだろう。

 蕎麦屋の例で言えば、蕎麦粉の品質や麺打ちの技術が向上し、10割の蕎麦でもボソボソでない、しっとりとした上品な蕎麦を提供するお店が登場しはじめると、値段は高くても味を追求する蕎麦と立ち食いの安い蕎麦屋に二極化されてしまった。客が求めるからだ。これにより、出前もする、カツ丼も置いてある、昔ながらの普通の中流的な蕎麦屋は淘汰されつつある。駅前に一軒あるとか、街を歩いていると、かろうじて生き残っている姿を時たま見かけるぐらいだ。感情論でいえば、個人的には非常に残念なことだと思う。そういう普通の蕎麦屋が生き残る道はないのだろうかと頭を悩ますこともある。しかし、そんな私でさえ、時間とお金の余裕があれば、遠くても高くても美味しい蕎麦屋を選択する。美味しくないものに対しては、誰も情け容赦をかけない時代になっているのだ。これは蕎麦だけでなく、外食産業全体に言える傾向であろう。

 このように二極化はまったなしの状況になっているのだが、ラーメンに関しては中流という枠の中で、文化が華開いているように思われる。先ほどカツ丼も置いてある蕎麦屋の例を出したが、確かにギョーザも置いてあるラーメン専門店は数少なくなっている。だからすでに二極化されているんだ!という意見もわかる。しかし、私の感覚からすると、それでもまだ良く言って「中の上」レベルなのだ。

 昔、「一億総中流」みたいな言葉があったが、今、日本人の多くは、自分の生活レベルを中の上だと思っているのではないだろうか。貧乏じゃない。金持ちでもない。でも、グルメにファッションに海外旅行も楽しめる。だから、中よりも上かな、と。ラーメンが日本の大衆文化に根付いた食べ物だとすると、その発展の歴史も日本人の財布のレベルとともに成長してきたのではないだろうか。はじまりは屋台で。そして今は「中の上=大衆(大多数)」という文化で落ち着いているのだろうと思う。もちろん、それはそれで、そういう文化を守っていけば良いと思う。「ラーメン=大衆的な食べ物」を否定するつもりもないし、今後もそういう発展の仕方を遂げていくのだろうと思う。ただ私はどうせなら美味しいものを食べたいのである。だからもうワンランク上のラーメンが少数でもいいから誕生して欲しいと考えているのだ。それが私の言うところの二極化である。

 それから「価格が高い=上品=お高くとまっている」ということでもないと思う。洗練された味、野趣溢れる味、クセのある味など、味の表現にはいろいろあるが、その中で極めてほしいということなのだ。ただそれだけのことであり、別に上品なラーメンを欲している訳でもないのである。ラーメンに対して、私のような考えを持つ人間が増えれば二極化がはじまるのだろうが、現時点では「ラーメン=大衆」派は圧倒的多数で与党であると思われる。私の考えはきっと議席数がひとつしかない、野党としても認められないような弱い立場かもしれないが、10年後には一大勢力となっているかもしれない。なぜなら、御当地ラーメンが発掘され尽くして久しく、今は御当人ラーメンブームといわれているが、市場が成熟されはじめれば、シェフによって店の人気不人気が分かれるのはただただ当然のことであり、ブームと呼べるものではなくなるだろう。ではその後何が来るかというと、真の淘汰でしかありえないからだ。本当に旨いラーメンは、これからやっと登場してくるのだろうと思う。それを祈願して、ここに私のラーメンに対する不平不満を述べていきたいと思う。

●麺についての不満
●スープについての不満
●トッピングについての不満
●全体的な不満について



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