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梅の季節がやってきた30を過ぎた頃から、梅干が好きになった。老人になった証拠だろうか(笑)。 梅干といっても、市販されているものではない。庭に成っている梅を使って、同じく庭に生えている紫蘇の葉を使って塩だけで漬けた、自家製の梅干である。ものすごく酸っぱくて、普通の人はとても食べられない、というような梅干である。 私は自分では漬けたことはないけれど、母親が漬けているのを見ていたので、その大変さを知っている。だから言うわけではないが、自家製の梅に勝るものはない。まぁ、なんでもそうかもしれないが、梅干は特にそうだといいたい。というか、市販されている梅干に本物はない。日本の伝統的な食文化のひとつが、確実に消えつつある。いや、確実に消えた、と思う。 だから、この(私によって)絶滅危惧種に指定されている梅干のために、どうしても紹介したい話しがある。水上勉氏の『土を喰う日々』という本に書かれているもので、日本という国が続く限り、ずっとずっと後世にまで伝えて欲しい話だ。本当は、全文を読んで欲しいのだが、それでは長過ぎるので抜粋してみました(それでも長いけど)。 ●以下抜粋 こんな梅つくりにも、じつは、ぼくの脳裏をはなれないことがいくつかある。それは、大切にしている「大正十三年の梅干」のことである。 ぼくは先年、といっても二年ほど前だが(注:この本が出版されたのは昭和53年12月)、テレビ局からご対面の時間をめぐまれて、誰でもいいから会いたい人に会わせてやる、という番組に出た。ひそかに、松庵和尚のだいこくさん(僧侶の奥さんのこと)山盛多津子さんとそのお嬢さんの良子さんに会いたかったからである。 松庵和尚は七十二歳で物故されていた。いまから十八年ほど前になる。禅宗寺では、とくに本山塔頭の寺などは、和尚が先に亡くなると、残されただいこくさんと、娘さんは気の毒な目にあう。養子縁組でもできて、すでに新命和尚がきまっておればいいが、そうでない場合は、母娘は追放されてしまう。若いべつの細君もちの和尚が晋山してくるからである。在家などだと、こういうことはないが、禅寺の場合は冷酷で、和尚の死後、路頭に迷う母子はいくらもある。和尚もそれ故に、在世中に、母娘の将来のために、何かと気を病むわけだが、瑞春院の場合、良子さんに縁がなくて、雲水との結婚話もないままに、松庵和尚は急逝した。本山からすぐに追放の命があった。まだ四十九日もこぬうちに母娘は、長年月、苦労をともにした寺を出ていったのだが、この時、多津子さんは、和尚の形見分けがほしくて、土蔵へ入った際、五十いくつもある梅干の壺を見つけて、大正十三年の日付のある一個を抱いて去った。大正十三年は、多津子さんが嫁入りした年であった。ぼくはまだ五歳だから若狭にいた。瑞春院に入ったのは昭和三年。御大典の年だった。その翌々年に赤ちゃんが生まれた。良子さんである。ぼくは、この赤ちゃんのおむつ洗いや、お守りにあけくれて、そのつらさに泣いた。四年目に脱走したまま、長く、この母娘に会わなかったのだ。 テレビ局の人は見つけてくれた。母娘は三井寺下の湖西線よこの住宅地にくらしていた。ところが、一年前に多津子さんは七十五歳で逝去。残された良子さんが茶の師匠をして孤独にひとり暮らしでおられる、という返事だった。だが良子さんから、ぜひ会いたいから東京のスタジオへゆくとの返事も局の人はもってきた。ぼくは、まだ赤ん坊だった良子さんが、四十五歳になっていることを憶い、複雑な思いで、軽井沢を下りて、スタジオへ入った。 ぼくと良子さんは、四十五年ぶりに会って話をした。お互いに生きてこれたことを喜びあった。わずか十五分くらいの番組で、いっぱい話したいことがあったが、あとはスポンサーに時間をとられて、結局、ぼくたちが本当の話をしたのは、局の応接間でだった。良子さんは、タッパウェアーの弁当箱大の容器に梅干を入れてきていた。それをぼくに差し出し、 「大正十三年の梅干です。母が父といっしょに漬けたものをもってきました。父は梅干が好きで、よく庭のをとって漬けていましたが、これは、母が嫁にきた年に漬けたものだそうです。母は、もし勉さんに会う機会があったら、これを裾分けしてあげなさい、といって死にました」 といって涙ぐんだ。ぼくは、声を呑んでそれを頂戴した。さっそく、軽井沢へもち帰り、深夜に、その一粒をとりだして、口に入れた。舌にころげたその梅干は、最初の舌ざわりは塩のふいた辛いものだったが、やがて、舌の上で、ぼく自身がにじみ出すつばによって、丸くふくらみ、あとは甘露のような甘さとなった。ぼくは、はじめはにがく、辛くて、あとで甘くなるこんな古い梅干にめぐりあったことがうれしく、五十三年も生きていた梅干に、泣いた。 ぼくは、このことをある新聞のコラムにかいた。そうしたら、若い読者から電話があって、梅干が五十三年も生きるものか。くさってしまうだろう。いいかげんなことをいうものじゃないと、その人はいうのだった。ぼくは、その青年に、五十三年経った梅干のすがたを説明し、その味をくわしく語ったが、青年はふふふんとわらい、 「作家は、フィクションがうまい」 といって切った。ぼくは、腹がたったので、また、この青年とのやりとりをコラムに書いた。そうしたら小田原に在住の尾崎一雄先生が、これを読まれて、次のような文章を「オール讀物」の随筆欄に寄せられた。 「水上氏は『再び梅干について』で説明を繰り返し、末尾で『電話の主へ言い忘れたからつけ足しておく。都会に出回る量産のニセ梅干の話ではない。真物の梅と塩だけで漬けた梅干の話だと』かう強く言っている。 さて、私のところには、嘉永三年(西暦1850年)作と、明治四十一年(1908年)作の梅干がある。前者は尾崎士郎の友人高木徳から昭和三十一年に貰ったもの、後者は三十年九月藤枝静男から貰ったものだ。藤枝氏からの添え手紙中に『小生の生まれた年に母が作ったもの、申年の梅は特に良いのださうです』とある。 貰うと共に家人は試食した。高木氏からのは、もう梅干とは言えぬもの、藤枝氏のはちゃんとした梅干、というのが家人の判定であった。 私はこの稿を書くにつき、藤枝氏からのを初めて一つ食べて見たが、貰ってから更に二十年経つのに、依然として梅干である。水上氏の言う味に近い。試みに固い種を割ってみたら、中の核(サネ、または天神さんとも言う)もちゃんとした味であった」 ぼくは尾崎先生の文章をよんで目頭が熱くなった。電話の青年は、この文章をよんでくれたろうか。 軽井沢で梅干をつけていても、以上のようなことが頭にやどっているのである。ぼくにとって、梅干をつくることは、いろいろなことを連想させ、そのいろいろなことを坪に封じ込めて漬ける楽しみのようでもある。松庵和尚のこと、多津子さんのこと、良子さんのことが、かさなるのはもちろんであるし、尾崎先生や、藤枝先生が、老境に入られながらも、青年たちにはたかが梅干といえるようなものを大切にされていて、舌にのせておられる友情のことをもである。まことに、人は、梅干一つにも、人生の大切なものを抱きとって生きるのである。こういうことを、ぼくは、電話の青年にいいたかったのだが。 さて、話は横道にそれてしまったが、かんべんしてもらいたい。ぼくが毎年、軽井沢で漬ける梅干が、ぼく流のありふれた漬け方にしろ、いまは四つ五つの瓶にたまって、これを眺めていても嬉しいのは、客をよろこばせることもあるけれど、これらのぼくの作品がぼくの死後も生きて、誰かの口に入ることを想像するからである。ろくな小説も書かないで、世をたぶらかして死ぬだろう自分の、これからの短い生のことを考えると、せめて梅干ぐらいのこしておいたっていいではないか。 <中略> ぼくの梅干随筆をよんだ糸魚川近くの、これも山奥の村からの老媼の便りだった。 「あなたの青年との梅干問答をよみました。あなたのおっしゃるとおり、梅干の命はながいものです。わたしどもの家には土蔵が三つあり、その一つの土蔵の階下の奥に、一つ大きなカメがあって、梅干が入っておりますが、これは先祖のつたえによりますと、源義経さまがお漬けになったものだそうです。また、この梅干は肉があっておいしゅうございます。一度いらしたら、あなたさまだけにはたべていただきとう存じます」 越後の糸魚川は、弁慶とともに義経さんがのがれた道中にちがいない。安宅の関でようやく難をのがれた主従が、糸魚川へさしかかったころは六月の梅のみのる時期だったか。たぶん、そうだろう。この老媼の村で、義経さんは一泊か二泊して、梅干をつけたものとみえる。『義経記』が身に迫るように、その文面から感じられて、ぼくはまた、目頭があつくなった。 こういう手紙をもらうのも梅干の縁というものである。ほんとうに、源義経が漬けた梅干が、越後の寒村にのこっていると信じるぼくをまた、あの青年はわらうだろう。わらわれてもいい。所詮、歴史は憶う人の心意外にない。憶わねば、歴史は消えたままではないか。 <中略> 梅にも醍醐味があって、その味は、ぼくという人間が、梅にからんで生きてきているからである。ドライブインの量産梅干を買って、それでめしを喰っても充分うまいけれど、手づくり梅には、手をつくすだけの自分の歴史が、そこにまぶれついている。それを客に味読してもらうのである。 このあいだ、ウィーンへいってきた。そこの葡萄酒の土倉の主人が、ぼくたち客に向かって、その年の葡萄の出来について、くわしく説明する眼の光りをみていて、涙が出た。人は、手でつくることにおいて、はじめて自然の土と共にある。たとえ、一粒の梅であれ、葡萄であれ、西の人であれ、東の人であれ、ちがいはない。 <中略> ぼくはこの梅干の吸物を、じつは、妙信寺前管長梶浦逸外師の著書でよんでおもしろく思い、やってみてわかったのである。梶浦師は、その著書で、次のようなユニークなことをいっておられた。 「修行の上からいっても時ならぬものを出すことは、宜しくない。その時々の季節、いわゆる『しゅん』のものを自由自在に調理できなければ一人前の料理人とはいえない。ご馳走という字は、はせ、はしると書いてある。だから寺の境内中、あちらへ走り、こちらへ走りすると、いろいろなものが目につくものだ。また、境内を歩かなくても、家の中、勝手もとをずっと歩けば、いろいろなものが目につく。草でもよし、果物でもよし、あるいはそこらにある菓子でもよい」 よくわかることばである。馳走の字の意味がここではじめてわかったが、禅者は、スーパーへは走らず、寺内の畑へ走ったのである。また走らなくても、台所の隅に寝ているものが見えていたのである。極意のことばのように思う。 ●以上 |
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